渋沢栄一ってどんな人?お札になったのはなぜ?3分で分かる功績まとめ

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渋沢栄一 お札 なぜ

2019年4月9日にお札のデザインが変更されることが発表されました。

これまで福沢諭吉が描かれていた一万円札は、新しく渋沢栄一の肖像画になります。

しかし、渋沢栄一という人物がどんな人で、何をした人なのか知らない人も多いようです。

そこで、渋沢栄一がお札に選ばれた理由やこれまでの功績を、有名な名言やエピソードなどを交えて簡単に分かりやすくご紹介します。

渋沢栄一はなぜお札になったのか?その理由とは

渋沢栄一がお札の人に選ばれた理由は、以下の条件があてはまったためです。

  • 明治時代以降の文化人(前2回の改札のときの考え方を踏襲)
  • なるべく精密な写真が手に入る(偽造防止)
  • 品格があり、お札にふさわしい肖像である
  • 国民各層に親しまれ、広く認められている

その中でも、渋沢栄一が選ばれた最大の理由はコレ。

「日本資本主義の父」であり

日本経済の近代化の最大の功労者

それはそれはすごい人なのですが、イマイチよく分からないかも。どんなことをやった人なのか、詳しくご紹介します。

渋沢栄一ってどんな人?プロフィール

渋沢栄一の職業は「実業家」です。

1840年2月13日生まれ。今から約180年も昔に誕生した方でした。

27歳~28歳の頃、第15代将軍の徳川慶喜につかえていた渋沢栄一は、パリ万博の見学とヨーロッパの文化を学びに行きました。

当時のヨーロッパには、日本にないものばかり。ガス灯が街を照らし、新聞が発行され、銀行というものが設立されていました。

「郷に入っては郷に従え」

それまでサムライのような着物姿だった渋沢栄一でしたが、欧州の影響を受け、このころから洋服姿の写真が残っているようです。

渋沢栄一の功績

明治維新となりヨーロッパから帰国した渋沢栄一は、大蔵省に入り、新しい国づくりを行っていきます。

最も有名な功績が、日本で初めて銀行を作ったこと。

当時33歳のときに創設した「第一国立銀行」。みずほ銀行の前身といわれています。人々がまだ銀行という存在自体を知らない時代に、お金を預けたり運用することの必要性を説いたのです。

ここから、渋沢栄一はたくさんの企業をつくり、成長させていったのです。東京証券取引所もその一つ。その創設・育成にかかわった会社や団体はたくさんあります。

直接かかわった企業だけで約500といわれ、団体も含めると600件を超えるほど。間接的にかかわったものまで入れると、数えきれないそうです。

渋沢栄一がかかわった企業・団体の一例

第一勧業銀行(みずほ銀行)、東京証券取引所、日本製紙、日本郵船、東京製綱、帝国ホテル、住友重機工業、東洋経済新報社、アサヒビール、東宝、北海道旅客鉄道、東京ガス、日本煉瓦製造、日本紙パルプ商事、王子製紙、東京海上火災保険、東日本旅客鉄道(JR)、日産化学工業、川崎重工業、日本セメント、古河機械金属、サッポロビール、清水建設、大日本印刷、東京証券取引所、日本経済新聞社ほか

渋沢栄一ゆかりの地

そんな渋沢栄一のゆかりの地ですが、関わった企業・団体が多いだけに全国各地にめっちゃあります。

ここでは、その中から有名なものをピックアップしてご紹介していきます。

埼玉県深谷市

埼玉県深谷市は、渋沢栄一の出身地です。

深谷ネギが有名な街には、駅前に銅像があったり、渋沢栄一記念館や旧渋沢邸があったり、何かと渋沢栄一押しの街でもあるんです。

誠之堂・清風亭

もともと東京都世田谷区にあった建物ですが、生まれ故郷の深谷市に移築されました。

「誠之堂」は渋沢栄一の喜寿(77歳)のお祝いに建てられた建物で、国の重要文化財に指定されています。

併設されている「清風亭」は、渋沢栄一と同じく第一銀行の頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して並べて建てられました。

渋沢栄一史料館

渋沢栄一記念財団が管理していて、東京都北区にあります。いわゆる博物館になっていて、ミュージアムショップなんかもあります。

渋沢栄一のお墓

91歳まで生きた渋沢栄一のお墓は、東京都台東区にある谷中霊園にあります。日暮里駅から徒歩6分の場所。

谷中霊園には、渋沢栄一が若き日に仕えていた君主・徳川慶喜のお墓もあるんですよ。

常盤橋公園と渋沢栄一の銅像

東京都千代田区にある常盤橋公園には、渋沢栄一の銅像が立っています。ちょうど日本銀行を背にして、大手町のビジネス街を見守っているかのようです。

渋沢栄一にまつわるエピソード

渋沢栄一は国のために貢献した人物で、とても慕われていた人だったそうです。その人物像が分かるエピソードをご紹介しますね。

自分の利益は求めない精神

渋沢栄一は、数多くの企業の創設したにも関わらず、財閥をつくらなかったことでも有名です。とある財閥の創始者と渋沢栄一の会話をご紹介します。

私と手を握って事業をやれば、日本の実業界も思いのままですよ!

財閥の人

いわゆる金持ちらしい誘いを受けるのですが…

渋沢 栄一

私とあなたとでは話の根のところが違う。
私は利益を分配する。
庶民が富めば、国が豊かになる。

といった発言をしたそうです。さらに…

そんなのは「船頭多くして船山にのぼる」だ。
そんな主義、捨ててしまいなさい。

財閥の人

渋沢 栄一

あなたの考えていることは、事業の独占にほかならない。
欲に目がくらんだ利己主義者でしかない。

と言ったそうです。自分がお金持ちになるのではなく、国を豊かにしたいと考えていたんですね。なんてカッコイイ人なの…

渋沢栄一はヒゲがないためお札になれなかった過去

実は、過去にも渋沢栄一が最終候補となったお札がありました。それが、1963年に発行された伊藤博文の千円札です。

渋沢栄一 お札 なぜ

落選した理由は、髭(ヒゲ)がなかったから。

当時は、今のようにお金の偽造防止の技術が進んでおらず、なるべく真似しにくい肖像画である必要がありました。ヒゲを生やしていない渋沢は、お札のデザインが複雑にならないため落選したんだそうです。

ちなみに、今回使われた肖像画は、渋沢栄一が70歳の古希のときの写真をもとにするそうですよ。

さいごに

調べれば調べるほど、すごい功績を残した人っていうのを感じます。今の日本を作った人、といっても過言ではないくらい。さすが一万円札!

お札に採用されると発表されてから、渋沢栄一のことがわかる書籍「現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)」がamazonランキング上位に入っていました!ちなみに、東洋哲学入門のカテゴリでは第1位の書籍です。

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